昭和48年03月03日 朝の御理解
御神訓 一、「神徳を受けよ、人徳を得よ。」
人間の幸福というものは、神徳を受け、人徳を得てゆくという生き方より、他に人間の幸福とゆう事は有りません。信心は神徳を受け、人徳を得る為に、信心が有るというてもよいのです、これはもう金光様の御信心はですね、他の宗教の事は、よく分かりませんけれども、金光様の御信心は、どこ迄も神徳を受け、人徳を得てゆくと言う事に、教えの全てがその事にしぼってあると思うです。
神徳を受け人徳を得てゆかなければ、人間の本当の幸せと言う事は有りません。いわゆる、あの世この世を通して、永却幸せになってゆくという道なんです、金光様の御信心はですから、お互い信心をね、本腰入れて信心させて頂かねば、附け刃の信心じゃ駄目、もう、その身から打ち込んだ信心にならなければ出来ません。只それは枝葉で有りますところのおかげ、おかげというおかげを追うておるような信心では、神徳は受けられません、人徳も得られません。
まあ神徳を受けると言う事、これは神徳というのは、神様の御信用じゃと教えられるのですから、いわゆる神様に信じられる氏子、をだから目指さなければいけん、ですから。それは色々ありましょう、あの氏子だけはと、神様が信じて下さる、神を信ずる氏子は多いけれども、神に信じられる氏子が少ない。ですから、まず神様を分からせてもらう、言うなら神様が見ておいでであり、聞いておいでヾあり、神様御照覧の中に、お互い日常生活させて頂くと言う事。
神様が見ておいでだから、それはもう油断も隙も出きない、と言う様な事ではありません、上下着けておかなければならん時には、上下着けておかねばならん、普段着の時は普段着、寝る前には寝間着を着替えるように、決して上下着けて寝らんならんと言う事では、決してないのです。だからその点、信心は容易いものじゃと仰る、その辺のところを段々理解をしてゆかなければ出来ません。
昨日の御理解に、無尽蔵言うなら限りないおかげに触れていく限りないおかげが受けられる、と言う事が、もう既に御神徳を受けてゆくと言う事なんです。願った事だけが成就する、というのじゃなくて、もう限りないおかげ、しかもそれが無限大に広がってゆく、それが御神徳です。それで昨日の場合は、神様があゝ言うて下さるのだから、神様がこうせいと言うて下さるのであるからと。それをもう理屈を言わずについてゆく、という意味に頂きました。
例えば私がもう、三年になりましょうか、沢山サイダ-を頂いておった、そのサイダ-を神様が、サイダ-を飲むなと仰せられた。だからもうそれっきり、私はもうサイダ-を一滴でも、飲まない事にしております、今にして分らん何故か、だからそれはもう理屈じゃないのである。昨日の御理解を頂く時に、私は御神前で「プレミアム」と頂いた。こっちが無学ですから分かりません、そこで私が御理解説き終ってから、高橋さんにその事を聞きました。
そしたらこう言う事だそうです。「賞与、又は報酬、又は割増金」、そういう意味だそうです。 はゝあこれで昨日の御理解が分かった、私共はね、もうプレミアムつきの、おかげを頂いてゆかねばならん、と言う事は、神徳を受けると言う事。例えば五と五とたせば十になる、といったような簡単なもんじゃない、五と五と足して、そしてそれが二十にも三十にも、いや百にもなっていこうかとゆう程しのおかげ、例えば三万円の入場料が、プレミアムつきで三十万円にもなると言う様なね。
そういうおかげを頂く為に私共が、いよいよ御神意のまゝに神様の、それこそ仰せ通りに仕りますという、もう底の抜けた程しの信心を、させてもらわなきゃいけません。自分で底をつける、自分でそこ迄は信ずるけれども、それから先は、そんなに信じられん、これでは矢張り、神様が信じて下さる筈は有りません、いうなら、馬鹿程に神様の仰せを、ひた受けに受けさせて頂くという心が。
いわゆる、金光様の御信心には必要なのです。場合には、それがうそであるような場合があるかもしれませんけれども、そういう時ほど大事にしてゆく。教祖様の御伝記の中に、いわゆる、あの「戻しの風は十層倍」、と言うて帰れと仰るような事がございます。今日は親戚の誰それが死んだ、親戚の者を連れのうて、お悔やみに行けとおっしゃった、それを ハイと承っておいでられると、当の本人は、ぴんぴんしておられた、元気でおられたと言う事である。
それこそ穴でも有るなら入りたい様な、思いでおありになったヾろうと、こう思います。けれどもその時に、古川八百蔵さんが入信されたと言う事が伝えられております、神様の仰せとゆうものには、あの様にも純真、率直でなければならないかと言う事にほとほと感心された訳です。けれども普通の者は、文さんが信心信心というて、信心気違いだから、もう俺達まで迷惑をした、と言った様な事も、まあお伝記の中には、そんな事も書いちゃありませんけれども、そう言う様な事もあったろうかと思います。
けれども帰りの道々、神様は「戻しの風は十層倍」と言うて帰れと仰った。もうプレミアムつきです、その事の自体は、たったそれだけの事なんだけれども、それによって神様が下さる、私にサイダ-をやめよと、どういう訳ですか、と言わずにです、ハイと承るところに私は、私がおかげを頂いてきたというなら、まあそれに類した事は沢山ございましたけれども、おかげ受けてきたんじゃないかと思うです。
昨日おとといでした、高橋さん、手広くお寿司をなさっておられます、西鉄の平和台にも、お弁当を出しておられます、もう永年、毎年毎年まあ、西鉄の信用を受けておられる訳です。ところが最近、大変物価が高くなりましたから、高くしてもらわにゃいけん、値段を上げてもらわにゃいけん、ところが西鉄というのは、非常に腰が強い、もう上げるなら他所からもらうから、と言った様な感じなんですねえ、いつも。
昨日、おとといもそう言う様な事で、こういう寿司を出させてもろうて、こういう値段で、というお届けが三つあった。これとこれと これがどれをとらせて頂いたらいゝでしょうか、どれをもって交渉に行ったらいゝでしょうか、と言う事だった。私は寿司が、どういう寿司やら分からない、又、どれがいくらと言う事も分からない、けれども御神意を頂いたのに、私は○をつけてやった、ところが後から高橋さんに聞かせて頂いたところが、その○をつけたのが、一番儲からない寿司だったそうです。
それでも御神意を頂いておる事ですから、これはもう高橋さんの独壇場のような事ですねえ、一切を親先生任せ、御神意通りとゆう事なんです、それでその事をもって交渉に参りましたところが、初めてですねえ、西鉄との間に、あんな風におかげを受けてゆかれたのは。その一番儲からない寿司ですからね、よかりそうなものなんですが、その一番儲からない寿司は、西鉄さんの方でも儲からないそうです。
そこで今度は、一番儲かるとに向こうが○をつけてくれた。 さあ沢山の寿司を出されますと、余ったりすると、それを全部引きとらなければならない、という約束でした。だからその事を交渉しておられましたところが、まあ引きとってもらうような場合は、五分は又お返しするといったような話にまで進展した、という昨日のお届けでした。プレミアムつきでしょうが、神様は一番儲からんとを売れと、こう言うて下さる。
けれどもその事態というものは、そうではない一番儲かるとの方に、段々話は進んでいっておる、と言う事。これなんかは、昨日の御理解にピッタリした事なんです。と言う様な いき方こそがね、神徳を受ける、神様の御信用を受けてゆく生き方、成程、御神徳は只それだけではありません、この教えの全てが云うならば、御神徳を受けていく為の、ですけれども、まず何というても信心には、その素直さと言う事が求められる訳で有ります。どういう訳と言う事はないのです。
そこに、言わば尽きぬおかげにつながっていく事になるのです。 又私共は、神様がこういう訳ぞと、訳を云うて下さっても、人間私共には分らんのです。もう分らん世界ばかりなのです、実は、信心の世界というのは、それを少しずつ分かってゆく、もう限りが無い程なんです、これはそんなら私が、信心の事は何でもかんでも知っておる、と思われる方もありましょうけれども、分らんなら御神意を伺うてと、云うけれども、御神意を頂いて答えを出して頂いても、分らん事ばっかりなのですから。
それを少しずつ分かってゆく、いうなら皆さんよりも分かってるけれども、分らん事が多いと言う事、多いからこそ、大きいおかげに又つながってゆくのです、限りない御神徳を受けてゆく、同時に人徳を得よと言う事。だから神徳が神様の御信用なら、人徳というのは、人の信用だと。もうあの男は当てにはならん、もうあのおばさんは、もう言う事は、と言う様な事は、信用の無い人です、もうあのおばさんのいいなさるのは間違いなかと、あの人のしよんなさる事を、見たり聞いたりすると頭が下る。
そういう人の上に私は信用がつくと思う。昨日の御理解もやっぱそうでしたよ、宣伝をして売るのじゃない、あの店だけは、もうとても、他所よりも必ず同じ品物なら安い、そして親切である、眞心いっぱいである、と言う事になれば、宣伝も何もいらん、人から人へ伝わってゆく、宣伝は、これはもう無尽蔵無限なものにつながってゆく、と言う様な御理解でしたねえ。それでなからにゃいかんのです。
今日は親教会の報徳祭なんです、いつも一日か、二日にはこゝから兄弟連れで、その御用に行きます。ところが今度は御承知のように、もう霊祭、謝恩祭、もう兎に角十人の先生方が もうそれぞれいっぱいお使いまわしを頂いて、もう全然、御用に行く時間が無い訳です。只一日のお月次祭に、最近はお供えを致しません、祭典料でお供えしてくれ、とゆう事でございますから、今はもう料でお供え致します、だから一日に光昭が祭典費と、それからお供え料をもって、行く事は行きました。
ちょいともう今迄だったら、二日の日はもう絶対、兄弟連れで久留米に、買物に行かなければなりませんでしたけれども、その事はおかげで、はぶけた、けれども御用には行っとりましたけれども、とうとう昨日も、おとといも、そんな訳で御用に行けなかった。さあ、それが、私が神経が小さいもんですから、それがひっかゝって、ひっかゝって、親先生に今日お参りさせて頂いたら、どげん言うてから言い訳しようかと。
昨日もね、佐田さん所の告別式でしたから、もう教会あげての事ですから、出来ませんでした。これは私、久留米関係の色々な会合とか、いろいろな時には、これはその身から打ち込んで、それに協力しなければならない事とおつき合いで、只協力しなければならない事がありますでしょうが、お互いいろんな場合、ですから若先生がもうそげなこつならもう、やめた方がようないですか、と言った様な事も沢山あるのです。
もううちはそげな事はもう、御無礼しとった方がいゝのじゃないですか、と言った様な、会合なんかヾあるんです。けれども、神様にお願いさせて頂きましたら、「つかず はなれず」と 頂きました。ですから矢張り、おつき合いだから、と言うて、私の方は御無礼しますと言うて、それで切るような事はせずに矢張りおつき合いだから、つかず 離れずでいくように言うのが私は、久留米関係の教会で、いろんな行事がある時の、これは私のその事に対する態度なのです。
けれども親教会とゆう場合は、そんな訳にはいかん、やっぱり思いを込めなければいかん、眞心いっぱいの事を、させて頂きたいと思う。例えば今日の御大祭でもです、一人でも多くの人に参って頂きたい、とこう思う、一人でも多くの人のお初穂を、おことずかりして行きたいと思う。にもかゝわらず、御用にも行けなかったと言う事がです、私は大変気にかゝっておりました。昨夜も其の事考えた、今朝からもその事考えた。
そうしましたら神様からね、言うなら、今日の御理解で言うと、人徳を受けてゆく為の一つの、手段だという意味の事を頂きました合楽が例えば、御用にも来なかった、どうしたこつじゃろうか、と言われる間は、合楽に対する信用がないのです、けれども合楽が、来なかったのだから何かよっぽど、よくせきの事があったんじゃろう、と親先生が思うて下されば、合楽に対する、私に対する信用がある時なんです。
これは、そうでしょうが皆さんでも、今日のような日に出て来ない、いやあの人が出て来ない事じゃからよっぽどよくせきの事じゃったろう、それはその人を信用しておる場合に、そうゆう見方をします、だから、そんなら私と、親教会との場合はです、そこまで信じられてはいないと言う事です。それは私があちらの信者時代にもう本当に、一にも親教会、二にも親教会、というておる時分は、もう本当にそれこそ、もう本当に信用されておったと思う。
ところがあの、いろんな事情で五年間の、空白時代があった時分にです、何とはなしに、まあいうなら合楽は見そこのうた、大坪さんは見そこのうた、と言った様な時代が永く続きました、ですから、さあそれから信用の回復をする事が、大変難しい事になりました。 というてそんなら昔のように、一にも親教会、二にも親教会とゆういき方でいくなら、まあ、すぐ昔の程度の信用ならば、とり戻すでしょう。
けれども、さあ一生懸命行ったり、一生懸命お供えをしたりする事だけで、もし信用されるとするなら、もしそんならお供えが出来なかったり、お参りが出来なくなったら、もう信用を落とさなければならないでしょう。だからこのいき方は嘘だと、私が感じましたから、そう言う事を致しません、只それこそ、大坪さんがする事に間違いはないと、信じられるところまで、高められたいと思うのです。
だから日頃そういう、願いというものを持っておりますから、神様の、いうなら御演出、御用にも行けなかったと言う事、それでも例えばそれは、親先生のお心ですから、合楽ばっかりは御用にも来ん、と思うておられるかもしれません。けれども、そう言う事も中にあってヾす、そして、いゝやあゝいう時には、合楽に何かがあっておる時だ、と信用して下さる一つの過程をね、作る為に神様は、そういう御演出をして下さったんだなあ、と、そこで私の小さい心も、大きく開けてきた。
あゝそういう神様の御都合であったな、と思わせて頂いた訳でございます。これは人徳を得る為の、いうならば精進であります。はぁあの人が好きだからというて、好きなもんを持って行ってあげたり、こうしてあげたり、あの人はもう仲々親切だと、そう言う事で信じられると言う事は、これは、私と皆さんの場合だってそうです、私はそう言う事では、そんなら皆さんを信用致しません。
矢張り心と心、いやあの人の事だから間違いはなかろうと、私は思えれる皆さんになって頂きたい。又、私の場合であっても、親先生はあゝいわれるけれどもと、言わば信じ、信じられる仲というものがです、育っていかなければいけないと思います。信じ信じられる、それが人徳、それが人間と人間の場合。神様の場合、御神徳というのは、先程申しますように、神様に信じられる氏子、
あの氏子だけは、どんな事があっても、どんな場合であっても、いうなら神様任せだと、神様が信じて下さる。そこで自分の都合のよか事だけは、神様任せになるけれども、自分の都合の悪い事、損になる事は、御免蒙ります言う様な行き方。高橋さんじゃないけれども、先生、○ つけて頂いたばって、それは一番儲からんとですよと、そん時言うておったら、どうでしょう、そう言う事では神様の御信用、御神徳は受けられんと言う事を聞いて頂きましたですね。
どうぞ。